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「DEVILMAN crybaby」のストーリーはすべて牧村美樹の"あのシーン"へと収束する

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(C)Go Nagai-Devilman Crybaby Project


 デビルマンをリメイクする、と聞いてデビルマンファンはこう思ったはずだ。「牧村美樹の“あのシーン”、やるの?」


 安心してください、やってますよ。


 詰襟を着た不動明とヘアバンドをした牧村美樹は昔の話、「DEVILMAN crybaby」の二人はスマホを使い、メッセージアプリで連絡を取り合う今時の高校生。


 美樹は陸上短距離の選手。顔は可愛いくて、足も速い。アイドル並みに同世代の人気を集める有名人。

 
 一方明は足も速くないし、いつもおどおどしている可もなく不可もない高校生。


 そんな明を訪ねて幼馴染の飛鳥了がやってくる。了は高校生ながら考古学者として活躍し、とある原住民の土地で「デーモン」の存在を知ったという。


 了は明を車にのせ、違法のドラッグパーティーに連れて行く。ドラッグを摂取しながら、裸同然で踊り狂う客たち。

 
 明と了の前で踊り狂う客の一人がデーモンへと姿を変えた。デーモンは次々に客を食い殺した後、明に襲い掛かる。走って逃げる明。しかしデーモンからは逃れられない。デーモンの巨大な口が明を噛みちぎろうとした瞬間、明はデビルマンへと覚醒し、その場にいた大量のデーモンを虐殺する。


 湯浅政明は「本能を映像化する」アニメ作家で、ドラッグじみた前衛的な中毒性と大衆受けをするエンターテイメント性を両立させる、変態じみた表現者である。初監督作品の「マインド・ゲーム」から「夜は短し歩けよ乙女」まで、アニメってこんなに自由で気持ちいいものなんだと実感させてくれる。


 「その本能を映像化する」という作家性がもろに発揮される第一話。人間がデーモンへと姿を変える、エロ・グロ・ナンセンスを全部ぶち込んだようなシーンは圧巻。テレビでも、映画でも許されない極限的な表現を許したNetflixに、ファンとして心から感謝したい。


 デーモンとは何か。デーモンを研究する了は何度も問いかける。デーモンは、人をモノとして扱い、人を犯し、人を食う。デーモンは人間の本能を表出させたエゴイズムそのものである。その本能が湯浅政明によって美しい表現に昇華される。デビルマンのテーマは湯浅的な美学と恐ろしいほどにシンクロする。


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(C)Go Nagai-Devilman Crybaby Project


 この本能の美しい表現、禍々しいデーモンの表現が最初から最後まで続けば…と思っていたが、そこまでは望めなかった。ストーリーの中盤は正直言えば退屈。デーモン表現も一話ほどの楽しさはないし、展開もいまいち。

 
 明と美樹は陸上選手なのだが、「crybaby」で表現しようとしたテーマと陸上競技がかみ合っていなくて、ストーリーにのめりこめない。「人間が走る」ということを主軸にストーリーの本質を語ろうとしているのだが、最後までよくわからなかった。これはスポーツ自体を主軸に据えた「ピンポン」のほうが上手くいっていたと思う。


 とはいえ中盤から後半にかけて、物語の求心力が格段に上がる永井豪が生んだデビルマンのプロット、日常が破壊されてデーモンとデビルマンの戦いへと至るディストピアストーリーは、表現を越えて"本能"に訴えかける。


 デーモンの存在と、人がデーモン化することを知った人々の間に疑心暗鬼が跋扈する。人が人を殺し、コミュニティが破壊され、街が荒廃していく。やがて疑心暗鬼が国同士の戦いを引き起こし、人類は滅びの道へ歩み始める。


 はっきり言って、デビルマンに出てくる人間は糞野郎ばっかりで、デーモンに食い殺されようが、デビルマンの業火に焼き尽くされようが、「ざまぁ」としか思わない。ここまで「人間憎い、人間死ね」と思えるのはリブート版の「猿の惑星」ぐらいだと思う


 そしてみんなのトラウマ、牧村美樹のあのシーンがやってくる。というか、「crybaby」のあらゆる設定やキャラクターやストーリーは、人間の醜悪さの極地ともいえるあのシーンに収束していく。明が絶望の果てにたどり着き、デビルマン軍団結成を決意するあのシーン。


 仲間だったあいつが。仲間を殺された恨みで。燃える家をバックに。デビルマンとなった明の目の前で…。


 全10話じゃ短すぎるとか、いくらなんでも人類がアホすぎるとか、飛鳥了がほんとに糞野郎で最初から最後まで微塵も感情移入できねぇとか、色々言いたいことはあるけれど、結果、全部まるめてとてもいい作品だった。


 そして何より、湯浅政明という天才クリエイターを世界に“もう一度見つけてもらう”ために、Netflixデビルマンという作品は最高の役割を果たしたと言えるだろう。