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映画『セッション』と行き過ぎた努力のドラッグ的快感

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映画『セッション』の鬼教官フレッチャーが登場する度に、大学時代に指導を受けていた教授を思い出した。テンプル大学のSchool of Media and Communicationでディレクターを務めているグラットソン教授だ。


写真を見れば分かるが、容姿が激似である。昔は、


「ミシェル・フーコーに似てるのが自慢なんだよ」


と言ってたが、今ではフレッチャーに似ていることを自慢しているに違いない。


容姿だけではなくて、教師としてのスタイルも良く似ている。


高圧的。怒鳴る。品質に妥協を許さない。


『Argumentation』という彼が担当するコースの最初の授業で、険しい目つきで生徒を睨み付けながら、


「ここにいる生徒の凡そ半分は、次の授業にはいなくなる。1か月後に半分になり、最後には1/3になるだろう」


「最初に言っておくが、私は甘ったれたり、指示を聞かなかったり、パフォーマンスの低い生徒には、躊躇せずにCをつける」


「君たちは大学で何をしている? 勉強だ。図書館は夜中まで開いているし、コンピュータールームは24時間営業だ。本も資料もそろっている。やることは一つだろう?昼夜を問わずに勉強しなさい」


などと、まくし立てた。彼の言う通り、次の授業には生徒の数が半分になっていた。(みんな『Argumentation』をドロップして、他のコースをとった)


努力、努力、そして努力


ラッパーの宇多丸師匠は映画『セッション』をスポ根映画だと評した。フレッチャーは、自分のバンドメンバーを怒鳴りつけ、平手打ちをかまし、モノを投げつける。


「Not my fucking tempo! Get you fucking ass back on the kit!」


多くの人に不快感を与えるフレッチャーの激情的な行動は、全面的にではないけれど、劇中、肯定的に描かれる。


偉大な結果を残し、偉大な人物として名を残すためには、狂気とも思える努力が必要だ。狂気の努力をこなした者だけが、次のルイ・アームストロングやチャーリー・パーカーになれる。


フレッチャーは言う。


「あのチャーリー・パーカーだって10代の頃、ジャム・セッションでヘマをやらかし、ドラマーのジョー・ジョーンズにシンバルを投げられ、観客から笑われながらステージを降りた。その夜、彼は泣きながら寝たが、翌朝から来る日も来る日も練習に没頭した。もしあの時にシンバルを投げられてなかったら、我々の知っているのあの“バード”は生まれていない」


主人公のアンドリューは、フレッチャーの教育的指導を肯定する。カワイイ彼女を捨てて、血豆にばんそうこうをはり、血に染まる氷水で手を冷やしながら、ドラムをたたき続ける。


挙句の果てには、コンペティションの日に、交通事故を起こしたにも関わらず、事故車から這い出し、血だらけのスーツで会場に向かい、舞台に上がる。


アンドリューは狂気を受け入れる。その狂気の果てに偉大な成果が待っていると信じている。そして、自分と同じ臭いをかぎ取ったフレッチャーは、彼を求め、彼をしごき、更なる高みに連れて行こうとする。


努力の先にあるドラッグ的快感


映画のクライマックス。フレッチャー率いるバンドで再びスティックを握ったアンドリューは、『Caravan』を叩きながら、不思議な境地へとたどり着く。動きがスローモーションになり、シンバルの上をゆっくり汗が跳ね、自分が叩くドラムの音も聞こえない無の世界。スポーツのゾーン、または、ドラッグを服用したような精神状態


努力は孤独で、辛く、厳しいものかもしれないけれど、その努力の果てにあるのは、快感だ。『セッション』の最後にアンドリューが到達したような快感を求め、人は努力する。


これは、アメリカの大学のエリートが持つ、ある種の共同幻想だ。


テスラモーターのイーロン・マスクのスピーチを覚えているだろうか。南カリフォルニア大学で彼は学生に向かって「週に100時間働け」と言った。100時間働いた者だけが、偉大な経営者に成れると言った。


日本のブラック企業の経営者は同じようなことを自社の従業員に対して言うが、アメリカのベンチャー企業の経営者は大学生に向けて言うのだ。


そして、多くのエリートがこの思想を受け入れる。


簡易栄養食品のソイレントはアメリカの大学で広く受け入れられている。


カリフォルニア工科大学、通称カルテックにはソイレントの様々なレシピを開発するDIYグループがある。カルテックの学生は寝る間も、食べる間も惜しんで、勉強に励む。昔はスニッカーズとグラソーのビタミンウォーターで栄養補給していたが、ソイレントにシフトした。壊血病患者達と揶揄されていた彼・彼女たちにとって、ソイレントはイエスが差し出すパンにも等しい。


皆、共同幻想を持っている。フレッチャーの思想を共有している。狂気じみた努力の果てに、とてつもない快感があると信じている。


努力思想がビジネスの原点?


大学で叩きこまれるこの共同幻想は、形を変えたプロテスタンティズムの倫理だ。


質素であること。ひたすらに努力すること。朝起きて、寝るまで、仕事について考えること。着飾らずに、黒いタートルネックの服だけを着て生活すること。


筆者もこの努力思想に共感していた。


友達も全然いないし、遊ぶことも余りなかったので、平日・週末問わずに図書館に通ったり、本屋の中のコーヒーショップで長居して、ひたすら宿題をしていた。その努力がきっとJob Satisfactionや、Great Achievementsにつながると信じていた。


日本のサラリーマンは良く働くが、アメリカのサラリーマンも同じくらい働く。エリートであるほど、イーロン・マスクに似た努力思想を持っている。それもこれも、大学時代にフレッチャーみたいな教官たちに植え込まれた思想だ。


『セッション』の舞台は音楽学校という特殊な世界ではあるけれど、監督のデミアン・チャゼルは、大学を生き抜いた全ての人達に向けて映画を作っているように感じる。


努力だ。努力しろ。努力だけが偉大な成果をもたらす。週に100時間働け。血豆ができるほどキーボードを打ち続けろ。


気持ち悪いこのスポ根魂は、筆者にとってはとても懐かしく、監督の思惑通り、観終わった後にアドレナリンがドバドバ出てきて、明日から頑張るぜ!という気分になった。


仕事に励むためには、たまにはこういうドラッグみたいな物語が欲しくなるのだ。


それくらい、日曜日の夜っていうのは、憂鬱なんだから。