Howを問うコンサルタント Whatを問う経営者
コンサルタントの仕事は課題を解決することである。課題も無く、順風満帆に経営をしている会社にコンサルタントはいらない。(一つも課題が無いなどという会社は無いと思うが。) コンサルタントはパワーポイントの資料をもって『お困りですか? 会計・IT・サプライチェーン、良い薬、そろってますよ』と提案し、提案が通ればその会社の"かかりつけ医"になる。
会社の経営者が"かかりつけ医"に求めるものは何か。起業の行く末を変えるような新製品の開発、新興国マーケットへの参入、社内カンパニー制の導入などなど、話題は尽きない。経営者は今まさに取りかかろうとしてる構想・戦略の是非をコンサルタントに相談する。
『●●さん、今度インドネシアで同業者を買収しようと考えているのだけれど、デューディリジェンスについて相談してもいいかな』
コンサルタントは、経営者が既に心に決めた構想・戦略に対して、そのやり方、つまりHowを提供する。構想・戦略を具体化し、どれだけのコストがかかって、どれだけの期間が必要で、どのようなスキルセットを持った人間が必要か。考慮すべきポイントを整理し、可能性のある障害を洗出す。必要であれば、スキルセットをもったコンサルタントを実行部隊として派遣する。
良く耳にするのが『コンサルタントは社内政治のスケープゴートとして雇われる』という話だ。つまり、経営者が何か大きな決断をする際にコンサルタントが矢面に立つ。経営者の代わりに彼らが決断した内容を説明し、万一失敗した場合は、コンサルタントに責任を転嫁する。
なんとも泥臭い話ではあるが、コンサルタントの仕事が結論が既に出ている案件に対して道筋をつけることであるが故だ。戦場は決まっている、残るは戦術を考えるのみ。負け戦になっても、腹は切らずに、荷物をまとめて潔く出国する。そんなコンサルタントに会社は多額の対価を支払う。その値は光り輝く箔の値段だ。
みんなWhatを考えたい
経営者の結論は間違っているかもしれない。魅力的な商品も無く、それを支えるバリューチェーンに光るものは無い。これは…と首をひねるような中期経営計画でも、それを基に数十ページ、時には数百ページにも及ぶ資料を作るのがコンサルタントだ。
経営者は最も大事なWhatを考えるというタスクは他人には譲らない。譲りたくない。Howを考えるのは大変だし、人手がかかる。面倒事はコンサルタントに任せたい。でも、Whatを考えることには固執する。
それはなぜか。
理由は、会社に勤める者にとって最も楽しい仕事がWhatを考えることだからだ。
学生時代や入社したばかりの頃、思い描くのがWhatを考えることだ。会社の新しいビジネスモデルを考え、新しい商品を考え、新しい仕組みを考え、喧々諤々と人と意見を交わす。付箋にアイデアをはり、フレームワークを使って分析する。自分が経営者になったと仮定して、あらゆる制約条件などを無視して、ゼロベースで色々なアイデアを考え、空想する。
しかし、会社に勤めていれば、そんな空想に浸ってはいられない。日々の業務があり、上司との付き合いがあり、社内のしきたりがある。枝葉末節のあらゆることが、さも大切なことのように思える。日が経つにつれ、事業部が、部署が、チームが、上司が目の前にある現実となる。自分が勤める会社のビジネスモデルを考えるなど、末端の自分にとっては無駄なことだ。
会社に勤める時間だけ、会社という存在から"疎外"される。会社がどのようにして儲けているか、など、目の前に山積する仕事に比べればささいなことだ。
しかし、長い間会社を勤め上げ、社内政治を潜り抜け、ようやく経営者の立場になった時に、忘れかけていた夢がかなう。Howは考えなくてもいい。Howは部下かコンサルタントに任せて、自分はWhatを考えればいいのだ。
Whatを考えられるということ。会社の、延いては自分の行く先についての裁量権があるということに、人は大きな喜びを感じる。これは、文系も理系も営業もエンジニアも関係なく、会社勤めの人にとって普遍のことではないだろうか。
時にHowを考えることは楽しい。しかし、それ以上にWhatを考えてみたい。付箋をたくさん壁に貼り付けて、ビジネスモデルを喧々諤々議論してみたい。
HowからWhatへ。
それは、ありふれた日常業務と血で血で洗う社内政治によって暗黒面に落ちた人間が人間らしさを取り戻す労働である。
※5/19追記: 不要な文章を削除。誤字脱字を修正。