"誰が言ったか"よりも"何を言ったか"を大事にしたい
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アリストテレスは著書『弁論術』において、相手を説得するには三つの重要な条件があると説いた。すなわち、ロゴス・パトス・エートスである。
ロゴスは論理による説得、パトスは感情に訴える説得、そしてエートスは話者の人柄による説得を意味する。これら全ての条件が言論の説得力を担保する。
アリストテレスの師であるプラトンは、相手を説得するための弁論術は、人々を真実への探求から遠ざけるうわべだけの学問に過ぎないと批判したのに対し、アリストテレスは弁論術を真実を相手に伝えるための重要な学問の一つと位置づけた。
真実は言語化され、相手に伝わる形に変換されなければならない。どんなに素晴らしい科学的な発見も、スキャンダラスな事件も、説得しやすい形にパッケージ化されなければ、相手には伝わらない。
例えば、Web上である真実を発表するのであれば、黒背景に小さな白文字の羅列で書かれた記事など、誰も読んではくれないだろう。見やすいフォント、リーダビリティに配慮したスペース、色合いが美しくデザインされた記事であれば様々な人が読んでくれるかもしれない。
修辞(レトリック)とも呼ばれる弁論術は真実を更に、広く人に伝えるために大きな役割を果たす。
誰が言ったか
説得のためのパッケージの中でも、エートス、すわなち話し手(書き手)の人柄は大きな役割を果たす。
人々が日々の業務に追われて忙しくなったのは何も今に始まったことではないのだけれど、兎角現代人は忙しい。通勤や通学の途中、ニュースやコンテンツは手元のスマホで確認する。エスカレーターに乗る、信号待ちをするなど、ちょっとした空き時間でもスマホをに手が伸びる。
より短時間で、より素早く情報を得て、理解しようとする。そのためには何が必要か。自分が長い時間をかけて深く考えなくても、自分の代わりに誰かが深く考えてくれたものを得ようとする。有名な誰か、肩書きがある誰か書いた、言ったことを得ようとする。
例えばツイッターで、ごく有り触れているが、教訓めいたツイートがタイムラインに流れてくる。リツイート数・お気に入り数は3桁ほど。『つまらんな』と思って、スクロールしようとすると、ツイート主は有名人である。
画面をスワイプする刹那に目に入った有名人のツイートを、ご大層にリツイートする。この一連の骨髄反射的動作を誘発するのはエートスだ。
『有名人が言っているのだから、正しいに違いない。』
エートスによる説得は、相手に骨髄反射を促し、思考を半ば停止させる。正しさを担保するあらゆる説得条件を保留状態に追いやり、絶対的な服従を強要する。話し手(書き手)と相手が気持ちの悪い馴れ合い関係で結ばれる。
何を言ったか
アリストテレスを引くまでもなく、知性を重んじる態度は、エートスのみならず、ロゴス・パトスをも正しく評価すること、つまり"誰が言ったか"よりも"何を言ったか"を評価することにあると筆者は考える。
"何を言ったか"を評価するのは"誰が言ったか"を評価するよりも難しい。ある言論について、その中で語られる"何"を理解するには、"何"をとりまく背景や前提的な知識が要求される。"誰"に比べて"何"が相手に要求することはあまりにも多い。
スマホで見つけた言論の中にある"何"は、エスカレーターで1Fから2Fへ移動する間に片手間で読むには、あまりにも複雑な"何"かもしれない。
それでも、それだからこそ、"誰"を横に置いて"何"について腰を据えて考えることが大事なのだろう。"誰"かが発信した"何"は骨髄反射で理解できるようなものではないかもしれない。"誰"かが何時間、何か月、何年もかけて紡いだ"何"には面と向かって対峙しなければならない。そこに含まれるロゴスとパトスをしっかりと受け止めなければならない。
"何"を理解する態度は知性への敬意であり、自分が"何"が理解できないことに対する戒めである。
これを忘れて"誰"ばかりを追い求めると、傲慢になり、不遜になり、とても哀れな"誰"になる。