短歌とセカイ~あるいは歌でいっぱいの海~
筆者は数年前短歌結社に所属していた。岡井隆が主宰する『未来』という結社で、加藤治朗・笹公人といったアバンギャルドな歌人が選者を務めている。(無論、正統派な選者もいらっしゃる。)
結社の同人は縦書きの原稿用紙に10首ほど認めて、自分が好む選者宛てに郵送する。選者がそのうちの何首かを選び、選ばれた歌が『未来』の同人誌に掲載される。筆者は加藤治朗宛てに何度か送った。私生活で色々あって原稿を書く筆が止まり、自然に結社も脱退してしまった。が、プロに自分の歌を見てもらうというのは、緊張することだし、良い経験であった。
そもそも、短歌に興味を持ったきっかけは、高橋源一郎『大人にはわからない日本文学史』で紹介されていた穂村弘の『短歌の友人』だった。短歌を通じた社会時評ともいう本で、近代から戦後、バブル期を経て現代で活躍する歌人達がどのような思想で短歌をつくってきたかが、軽快な文体で語られる。穂村の脱力した厭世観たっぷりのエッセイと違い、時代に流れる空気を読み解く視線は鋭い。取り上げられる歌にはどれも、ハッとさせられる。
ぼくたちはこわれてしまったぼくたちはこわれてしまったぼくたちはこわ(中澤系)
短歌の良さが分からない?
短歌というと、どんなイメージを持っているだろうか。いや、そもそも短歌について考えたこともない人がいるかもしれないが、なんとか記憶の底を探ってほしい。そのイメージは、「小難しい」・「何が言いたいのか分からない」といったものだろうか。加えて、学校の教科書に載っていた塚本邦雄の
日本脱出したし皇帝ペンギンも皇帝ペンギン飼育係も(塚本邦雄)
「に出てくるペンギンってなんかかわいいよね」くらいのものだろうか。
歌は何の要素を以てして良い・悪いと判断されるのか。基準はあるのか、ないのか。それが素人にはてんで分からない。例えば、塚本邦雄の旧漢字と文語で修飾された前衛短歌が、現代で暮らす我々の心に果たして響くだろうか。
難解な単語、奇抜な固有名詞、支離滅裂な句間のつながりといった特徴を持つ前衛的な短歌は、プログラムにより自動生成された短歌と区別がつかない。読者は、佐々木あららが作ったプログラム『星野しずる』の歌に"意味"を求めずにはいられない。それは、塚本邦雄の歌を読むプロセスと全く同じだ。前衛的な歌を前にして読者を支配するのは、難解な言葉に隠れた意味に対する、畏敬と嫌悪が入りまじった感情である。
透明なあかるい嘘の曲線を数えて眠る悪夢になった(星野しずる)
短歌とセカイ
"意味"の解釈を求める短歌は、一旦隅に置いておこう。それらと対峙するのは、短歌の技法と古語を習得してからでも、遅くはない。
筆者は、小難しいことを抜きにすれば、歌の良さはその歌が想像を諭すセカイの大きさであると思う。すなわち、31文字から成る歌の後ろに、複雑で、生々しく、小さくも重厚なセカイが広がっている時に、その歌が良いと感じる。
ベタだと言われても、穂村弘のこの歌が好きだ。
終バスにふたりは眠る紫の<降りますランプ>に取り囲まれて(穂村弘)
<降りますランプ>(いわゆる降車ランプ)が光る車内に、肩を寄せ合って眠る二人。恋人同士かもしれないし、幼い兄弟かもしれない。"ふたりは眠る"の表現に、夜独特の静けさと、穏やかさを感じる。<降りますランプ>の光は蛍光灯の光に溶けて、長かった一日に幕をする。31文字が、音も匂いも冷たさも暖かさも、五感全てを刺激して、歌を読んだ後、気がつけば、歌の持つセカイに首まで浸かっている。
短歌によって切り取られたセカイは普遍的なものである。時代によって変わりゆく情報のコードの奥に潜む、根源的で、生理的なもの。嬉しかったり、寂しかったり、せつなかったりするもの。その普遍的なものを、場面を変え、ポートレイトを変え、それらを表現する言葉を替え、表現する。
例えば、平安時代の歌人と現代の歌人の歌を並べてみる。どちらも、寂しさを表現した歌だ。
心なき身にもあはれは知られけり 鴫立つ沢の秋の夕暮れ(西行)
ふとんの上でおかゆをすするあと何度なおる病にかかれるだろう(斉藤斉藤)
短歌が描くセカイのバリエーションは少ない。短歌などというものを作る自意識過剰の創作者は、おそらく大体寂しがり屋で、皆、その寂しさを紛らわすために、歌っている。意匠の方法が異なるだけで、向かう先は同じだ。
ずっと寂しさについて歌っている孤独の歌人枡野浩一の代表的な歌はこんな歌だ。
毎日のように手紙は来るけれどあなた以外の人からである(枡野浩一)
ツイッターで、ブログで、あらゆる手段で、寂しい人が短歌をよんでいる。でも、その海に漂うと、すこしだけ、寂しさが紛れる。短歌は、そんな淡くて緩やかな連帯を生み出す、少し変わった手段なのである。
剥き出しの言葉を"吐"いて捨てる場所あるいは"歌"でいっぱいの海(但木一真)