コンテンツ・物語・オープンサーキット
著者が初めて読んだラノベはパズルゲーム『ぷよぷよ』の基となった魔導物語シリーズであった。確か中学生くらいの時に、薄い単行本を数冊買って、夢中になって読んでいた。
魔導物語シリーズというのは、もともとは株式会社コンパイルが発売したロールプレイングゲームである。短髪僕っ子の主人公アルル・ナジャや美男子なのに変態の誉高いシェゾ・ウィグィィ等のキャラクター・世界観を同じくした複数のゲーム・小説といった派生商品を展開した。
メディアミックスと呼ばれる手法で、1つのコンテンツを複数のメディアに展開し、相乗的にコンテンツの人気を高めることができる。魔導物語の例では、派生商品である『ぷよぷよ』が大ヒットし、魔導物語シリーズもその恩恵にあずかった。古くからある手法だが、インターネットの普及により、展開する手法が爆発的に増加した。
物語はクローズドサーキットを形成する
メディアミックスの肝となるのは、コンテンツが持つ物語である。これは虚構でも事実でも良い。物語に関連する人物・事件が、コンテンツを受け取る人間に深く共感された時に、物語は協力な磁力を伴う。良い映画を見た後、物語の中に未だ自分が入り込んでいるかのような、ふわふわとした感覚。この浮遊感は、物語の中の世界と現実の世界との境界が曖昧になった状態といえる。
物語に魅せられた人は、一にも二にも、提示された世界観のフィルタを現実世界に投影し、虚構と現実がまだらになった時間を過ごす。これは一種のドラッグだ。
著書『アンダーグラウンド』に触れ、村上春樹はオウム真理教の信者が、この教団によって作られたフィクションの磁力に囚われ、自らの力で考え、判断する力を失っていたことを指摘している。
しかし麻原が信者たちに向かって提示した世界観は、基本的にはひとつのフィクションだった。要するに「実証の枠外にあるもの」だった。いや、僕はそれを非難しているわけではない。誤解を恐れずにいえば、あらゆる宗教は基本的成り立ちにおいて物語であり、フィクションである。そして多くの局面において物語は-いわばホワイト・マジックとして-他には類を見ない強い治癒力を発揮する。それは我々が優れた小説を読む時にしばしば体験していることでもある。一冊の小説が、一行の言葉が、僕らの傷を癒し、魂を救ってくれる。
引用元: 村上春樹雑文集
物語が、閉じた場所・関係性の中で圧倒的な力を持った時、虚構が現実となる。村上はこれを"クローズドサーキット"と呼んだ。つまり、クローズ(閉ざ)され、出口のないサーキット(循環)である。
物語は必ずサーキットを形成しようとする。それは、物語を紡いだ人が人を引き付けようと念を閉じ込めているからである。愛すべきキャラクター、想像を超えた世界観、虚を突かれるドラマツルギー。これららの要素が巧に配置され、読者・視聴者を自分のサーキットへと引き入れる。
クローズドサーキットからオープンサーキットへ
村上は物語はサーキットを生み出すのは必然であるものの、サーキットには出口がなくてはならないという。物語に訪れた読者・視聴者は、自分の足で、そこから出ていかなければならない。
しかし言うまでもなく、フィクションは常に現実と峻別されなくてはならない。ある場合にフィクションは我々の実在を深く呑み込んでしまう。たとえばコンラッドの小説が僕らを実際にアフリカのジャングルの奥地へと運んでいくように。しかし人々はいかつ本のページを閉じて、その場所から現実へと立ち戻ってこなくてはならない。我々はそのフィクションとはべつのところで、現実世界に立ち向かう自己を、おそらくはフィクションと力を相互交換するかたちで、作り上げていかなくてはならない。
魔導物語はもとより、コンテンツ産業におけるメディアミックスの例は枚挙に暇がない。一つの魅力的な物語を生み出しあとは、サーキットを形成し、忠実な顧客へと育てようとする。なぜなら、忠実な顧客はその効力が続く限り、継続してコンテンツを支援するからだ。
しかし、出口のないサーキットに閉じ込めた顧客が本当に良いお客であるのか。虚構を現実と偽ることで何がもたらされるのか。新しい人を拒み、忠実な顧客を閉じ込めることで得られる利益はどれだけか。その代償は。
メディアミックスの手法が多種多様になれば、物語が持つ磁力は伴って強大になる。出来上がるサーキットは強固なものとなる。
コンテンツを供給する側は、常に問い続けなければならない。そのサーキットはオープンか。自由か。出口はあるか。
それほどまでに、コンテンツは、そして物語は、人を支配する力を持っているのだから。